昭和41年05月15日 朝の御理解



 先日の竹葉会の日で御座いました、若いお嫁さんばかりの集う会です、高橋さんとこの家内も、おかげ頂いておりましたが、お父さんが自動車で迎えに来るから、それ迄椛目で待っておる様にとの事だったから、待っておりました。とうとう晩になりました、高橋さんとこの家内子供、それから秋永先生とこの家内も一緒に便乗さして貰うから、残っておりましたから、一緒に夕食をさして貰ました。
 その夕食の時の事なんですけれど、丁度御夕食さして頂こうとしよりましたら、高橋さんが参って来ました、まあ、一緒にお夕食をさして頂き乍ら、お夕食前に皆に一杯出さして貰うたんですよね。ところがそれぞれ飲み物が違うんです。私はブランデ-でなからにゃ、この頃頂きませんから、私はブランデ-を頂きます、私のブランデ-を久保山先生にもグラス一杯差し上げた。
 私と久保山先生がブランデ-、久富先生が貴方焼酎を持ってらっしゃい、焼酎をコップ一杯、高橋さんはサントリ-のウイスキ-があったから、それを持ってらっしゃい、そりから高橋さんとこの奥さんには、丁度白酒を頂いておりました、桃の節句にお供えする白酒を、タンサンで和風のカクテルを作って出しました。秋永先生の家内には、私の取って置きにしておりますウイスキ-これは一本八千円もするという、それを出しました。それぞれがそれを味わい、それをおいしく頂いて。
 俺には焼酎しか出さんな、俺にはこんなウイスキ-、だれだれには最高のウイスキ-という雰囲気がさらさら無しに、それをそれぞれに、味わって頂いたことで御座います。そして私ゃ思うた、私は本当におかげ受けておるな、人を軽う見るとか、この人を付け込んどるから、たとえば久富先生に、あゝた焼酎持って来なさい。ところが久保山先生に差し上げたように、ブランデ-を少しばっかりを、一グラス久富先生に上げたからと云うて、喜ばれないのです。
 それより、矢張り焼酎を大きなコップ一杯頂かれる方が、久富先生は喜ばれるのです。と云うてウイスキ-を、勿論サントリ-の特級を高橋さんに上げた、秋永先生とこのフミさんに超特級のウイスキ-を、例えば高橋さんに超特級のウイスキ-を飲ましても分らんのです、一級のウイスキ-やら特級の味を、あとからこう飲んで見てから、これが八千円のウイスキ-と云う事が分かるか、分かるのは先ずフミさん一人だと私が思うたから、フミさんにそれを飲ました。
 高橋さんとこの家内は、お酒が沢山頂けませんから、女、子供でも頂ける様にして私は出した、皆さん、どういう風に感じられますか、確かにその私が、そう言う風にして、まあそれぞれのお酒をそれぞれに勧めた、それでいて。かえって何とはなしに楽しい雰囲気があった事は、皆さん想像が出来るでしょう。それは私を知っておるからですよ。皆さんが先生は汚い人じゃある。
 久富先生には焼酎を、かてっぽには超特級をと、いう風な思い方はそれこそさらさら無い、と云う事はお話を聞いて下さっても想像がつくだろうと、こう思うのですけれども。私ゃ思うんですね、信心さして頂く者が、そんなら最高が頂きたいと皆さんが願うなら、最高の物の値打ちを知らなきゃいけません。値打ちの分からないものに上げても、仕方がないでしょうが、猫に小判と申します様に、猫に小判をやっても、その小判の値打ちが分からないから、猫に小判はやらないのです。
 皆さんが、経済の上に難儀しておられる人は、お金がもうそれこそ、首から手が出る様に欲しいのだけど、何故、与えられないのかという事です。皆さんが、言わば、お金ならお金の。本当の値打ちを、分からして頂いたら、神様はお金を下さいます、健康の値打ちが様々な、私共の難儀と思うています、その難儀の、本当の値打ちというものが、分かったら、私ですら、値打ちが分からなければ、その人に上げようとしないから、まして神様はそれなんです。
 本当の値打ちが分る、信心とは私本当な事が分かるとは、本当は値打ちが分かると云う事、だと思うそこで信心さして頂く者は、肉眼をおいて心眼を開けと、こうおっしゃるのです。肉眼で見たのでは、本当の事は分らんのです、心眼を開かして頂いて、始めて本当の事が分かるのです。肉眼をおいて心眼を開け、心の目を以てすると、真の事の真相真実、真が分かるのです。
 そこでまあ、手っ取り早い話がです、どう言うふうに、どういう様なことに解かっていくことか、私共はその 云うなら最高のおかげから、おかげを頂けない様に、頂けない様にしておる様な場合はないだろうか、それを私は皆さんに、何時も申してりますのは、神愛と云う事です。一切が神愛であると云うこと。一切が神愛と分かる時に、今まで難儀と感じておったそのことは。
 難儀ではなく、神様に心から御礼を申し上げれる境地としてものが聞けてくるのですおかげ一切が神愛であると思いさえすればよいと言うただけではいかん所に信心の稽古が必要なのです。信心の稽古をせして頂いて、真実肉眼ををおいて心眼を開かなければ、それが神愛であろう事が分らんのです。先生が何もかも神愛と仰るから、例えて云うなら降ってもおかげ。照ってもおかげと仰るから、降る事もおかげじゃ。
 照る事もおかげじゃと、そこが思うただけではいけんのです、成る程降る事もおかげ、照る事も又おかげであるなと云う事を、分らせて貰う為には、肉眼を置いて心眼を開かなければ頂けんのです。お互い信心の稽古さして頂いておると云う事は、その肉眼から心眼を、開かして頂く稽古なんです、そこに私共の心眼に映ずるもの一切が神愛、神様がこういう手のこんだ事まで、演出までなさってから。
 こういうおかげを下さる事のために、神様のお働きがあっておるんだと云うことが、私共の置いた肉眼ではなくて、心の目に映して来る。それが私は本当なことが分ることだとこう思うのです。それを実想とも申します、世の中のそうした総ての事の中に、その実想が分らしてもらう真の姿、真のことが解らしてもらうために、どうでも私共がです、真の信心を目指さねばならぬ。
 私は最近、もう毎朝お取次さして頂いて、有難いと思う事は、北野の福島さんの奥さんです。もう真剣に、どうぞ今日も真の信心を分らして下さい、毎日同じでも、この位迫力を以て攻って来る様に私ゃ有難いお取次はありません。今日もどうぞ真の信心を分らして下さいと、お取次を最近願われるんです、有難い事だと私は思うんです。皆さんが願う事は、それじゃなからにゃいけんのです。
 その真の信心が解からして頂くために、私が先ず、真の人にならして頂かにゃならんのです、どうぞ真の人にならして下さい。真の人にならして頂くということは、真の婦人会で言うなら良い家内であろう。真の子供会なら良いお母さんであろう、孫から云うなら真のお婆さんであろう。真の良い私共が隣人から云えば良い私共が、社会人としてのおかげを頂くと云うこと。
 あゝあっだん金光様の信心はしよるばってんと、例えば云われる様な事では、何時迄たっても本当な事は分らんと思う、所謂本当な道は分らんと思う。「真の道に居りながら、真の道を踏まぬ事」と教祖は御神誡下さっておる。先ず真の人にならせて頂く事を願わなくてはならん。そして真の道に出らなければならぬ、そしてそれを歩かなければならぬ。そこに自ずと開けてくるのが心眼である。
 心の目である、本当の事が分るおかげが頂けれる。私は例えばこのいゝウイスキ-を、誰彼に飲ませる事を惜しいとはさらさら思わない、もしこの良いウイスキ-の味わいが分るなら、その分る全部の人に飲ませて上げたい。素晴らしいですね、やっぱり一本八千円の値打ちはありますよ、と云う人にはほんとに、全部にそれを飲まして上げたい、けれども一級のサントリ-とあまり変わらんごたる、どこが良かじゃかと云う者に、その特級飲ましたって仕方がないでしょうが皆さん。
 それよりか、質よりか量でいった方が良かと云う久富先生に、それを上げても却って氏子は喜ばんでしょうが、かてっぽは酔いさえすりゃ良いのである、かてっぽは本当に味わって酔おうと、こう云うのである。その味わいが分からない、言わば今迄は難儀と思うていたその難儀を本当に味わい尽くさして貰うて、難儀も又有難い。難儀じゃない神愛の現れだなぁと分らして頂く時。 
 私しゃ真実の姿を見た人であり、分った人の姿である。そこにあの氏子なら何をしても本当の事が分ると、云う事に成って来るのじゃないでしょうか。あの氏子は何をやっても喜びぶというのじゃなくて、何をやっても本当の事が分ると云う事です。本当の事が分らなければ、下さっても値打ちがないと思し召したら、本当なものは頂けない、と云う事になるのじゃないでしょうか。
 信心さして頂く者は、どうぞ肉眼を置いて心眼を開けと仰います。心眼を開かせて頂く為には、私共が先ず真の人を目指さねばいけません。良い社会人であるだろうか。良い妻であり良い夫であるだろうか。良い親であり。良いおじいちゃんであり。お婆ちゃんであるだろうか。本当の意味においての、そこんところに私は焦点を置いて信心の稽古をさして頂かねばならん。
 そこんところに焦点を置いての信心の稽古であったなら、椛目通いの本当の値打ちが分って来る頃に、必ず本当のおかげが頂けて来るんだと。それはここで言うならば私が頂いておる喜びというか、又頂いておるおかげというものが頂けれるとこう思うのです。成程私は焼酎も頂いておれば、最高の八千円するウイスキーも頂いておるのであるから、応じて私はあげる事が出来るとこう思うのです、最高のものを頂けれる信心をひとつ頂いて頂きたいと思います。
   どうぞ。